「私は職員が辞めるのを止める人です。でも自分は退職したくて、吐き気がする。」
こう語ったのは、介護施設の施設長。非常勤ヘルパーからキャリアをスタートさせ、20以上の拠点を統括し、数百人の職員を抱える立場にまで上りつめた女性だ。経営層の世代交代により、経営方針が「現場の裁量を尊重する」から「統制と微管理」へと大きくシフトした。その環境の質的な変化の中で、彼女が直面したのは、単なる「給与」や「勤務地」では解決できない、深刻なキャリアの葛藤だった。
本稿では、長年の献身の末に「ここは自分がいるべき場所ではない」と気づいた管理職の面談から見えた、「転職したい気持ちを押し殺すことの危険性」と、その先にある真のキャリア選択について考察する。
ヘルパーから施設長へ——献身と信頼の15年
彼女のキャリアは、非常勤の介護ヘルパーからスタートした。その後、様々な職場で経験を積み、やがて施設運営に携わるようになり、今では複数の拠点の施設長として経営層に近い立場で判断と指示を下す毎日を送っていた。
15年以上にわたる現場での経験と、その間に培った信頼関係は、彼女の最大の資産だ。職員との関係も良好で、離職予防のための相談に乗ることも多い。「職員さんが何か困っていることがあれば、それをサポートしたい」。こうした姿勢が、組織内での彼女の立場を確実なものにしていたのだ。
しかし、その過程で、彼女自身のキャリアに対する想い、人生観そのものが、見えないところで揺さぶられていたのである。
経営層の交代が生み出した「質的な変化」
転機は、組織の経営層が世代交代した時点で訪れた。創業者から後継者(息子)へと経営がシフトした。この過程で、経営理念や経営方針が大きく変わった。
創業期には、現場の職員を信頼し、判断と実行を委譲する文化があった。施設長を含む管理職には、現場で判断し、創意工夫を発揮する自由度が与えられていた。しかし、新しい経営層の下では、その自由度が大きく制限されることになった。
創業期:現場の自律性を重視。管理職は現場の状況を見極め、柔軟に判断・実行する自由がある。
新経営層:統制と規格化を優先。本社の方針に従うことが求められ、現場の判断の余地が縮小。
これは単なる「管理方針の違い」ではない。彼女にとっては、「自分たちが何のために働いているのか」という根本的な問いに直結する、キャリア観の破壊だったのだ。
「退職したい気持ちを押し殺す」ことの重さ
新しい経営方針の下で、彼女は葛藤を抱えていた。「この環境は自分には合わない」「別の場所で働きたい」——そう思いながらも、それを言葉にすることができない。
その理由は、複雑だ。
第一に、責任感の重さがある。「15年間、この組織のために尽くしてきた。今さら辞めるのは、この組織への『裏切り』ではないか」という心理が強く働く。彼女が築いてきた信頼関係や、職員との関係性を考えると、自分の都合で去ることは許されない気がしたのだ。
第二に、「施設長としての責任」がある。自分が去ることで、職員や利用者に迷惑がかかるのではないか。新しい施設長が来るまでの間、誰が現場をまとめるのか。こうした不安が、転職の決断を後押しするのではなく、むしろ引き止めてしまう。
そして第三に、もっと根深い問題がある。「自分が辞めたいという気持ちを持つこと自体が、許されないことなのではないか」という無意識の罪悪感だ。
実際、彼女は何度も「自分は職員が辞めるのを止める立場なのに、自分が辞めたくなるというのは……」と、自責の念を口にしていた。その口調から、心身の疲弊が強く伝わってきた。
「吐き気」は心身が発する警告信号
「退職したい気持ちを押し殺していることで、吐き気がする」という彼女の言葉に注目したい。
これは、単なる「気分の悪さ」ではなく、心身が発する明確な警告信号だ。環境との不適応、価値観のズレ、そして自分の気持ちを抑圧することへの反発が、身体症状として現れているのである。
このような状態が続けば、どうなるのか。確実に以下の事態が進行する:
- 精神的な疲弊が深まり、判断力が低下する
- 職務遂行の質が低下し、チームへの悪影響が増す
- 自分の不安や焦燥感が、職員に伝播する
- 心身の不調が深刻化し、休職や離職がより急激になる
つまり、「今は耐えよう」という選択は、最終的には、自分にも組織にも、より大きな負荷をもたらす可能性が高いのだ。
20拠点以上を統括する立場の持つ「見えない圧力」
彼女が施設長を務める拠点は、20以上に及ぶ。数百人の職員が彼女の判断と指示を待ち、その言葉を頼りにしている。
この立場ゆえに、彼女は「職員の前では、自分の感情を表に出してはいけない」というプレッシャーを無意識に感じていた。管理職たるもの、いかなる状況でも「強さ」を示さなければならない。自分の迷いや不安を見せることは、チーム全体の士気を損なうことになってしまう。
しかし、この「強さの演技」は、エネルギーを消耗する。毎日、本心とは異なる顔を職員に向け、本音を抑え込んでいる。その中での「吐き気」は、もはや単なる心身不調ではなく、その状態の持続不可能さを示す危険信号なのだ。
「裏切り」ではなく、「正直な選択」である
面談の中で、彼女に何度も伝えたのは、次のメッセージだ:
「15年間、あなたが尽くしてきたのは、事実です。でも、その事実が、今この瞬間の『自分の気持ちを無視する』理由にはならない。現在地で、自分の人生をもう一度考え直すことは、『裏切り』ではなく、『正直な選択』です。」
多くの献身的な人は、こう考えがちだ:「ここまでしてきたのに、今辞めるのは申し訳ない」「これまでの苦労を水に流すことになるのではないか」。
しかし、これは大きな勘違いだ。過去の努力と現在の決断は、別の問題である。過去に尽くしたからこそ、現在と未来において、自分の気持ちや価値観を最優先に考えるべきなのだ。
むしろ、「自分の気持ちを押し殺して、その職場に留まり続ける」という選択の方が、組織に対する失礼であり、危険である。心ここにあらずの状態で職務を遂行されるより、自分の適性と価値観に合った環境で、全力を尽くされる方が、組織にとっても、利用者にとっても、そして何より自分自身にとっても良いのだ。
転職先選びで重視すべきは、「経営理念」と「現場の自由度」
彼女が次のステップへ進む際に、何を基準に職場を選ぶべきか。給与?勤務地?それらも大切だが、最優先すべきは、別のところにある。
1. 経営理念と個人の価値観の一致度
会社が何のために存在し、どのような価値観を大切にしているのか。その理念が、自分のキャリア観と合致しているか。
2. 現場の自由度と判断の権限
管理職として、現場の状況に応じて判断・実行する自由度がどの程度保証されるのか。統制か自律か、その軸足がどこにあるのか。
3. 職員との関係構築を重視する文化
利用者や職員との関係性を、戦略的資産として見なすのか、それとも管理の対象としてのみ見なすのか。その姿勢が組織全体に浸透しているか。
彼女が長年積み上げてきたのは、「人間関係を大切にする経営」のスキルだ。それが現在の環境では活かしきれていない。であれば、その強みを最大限に活かせる環境を、積極的に選ぶべきなのだ。
「転職という決断」は、決して逃げではない
これまで、多くの転職希望者と話してきた中で、共通して聞くのは、「転職を決意することへの罪悪感」だ。特に、責任感が強く、献身的な人ほど、その傾向が顕著である。
しかし、転職は決して「逃げ」ではない。むしろ、それは「自分の人生に向き合う勇気」であり、「環境への正直な判定」なのだ。
彼女のように、15年間の献身の末に「ここは自分の場所ではない」と気づくことは、遅すぎることではない。むしろ、その気づきを行動に移すことが、自分にとって、そして最終的には組織や利用者にとっても、最善の選択になるのだ。
「吐き気がする」という心身の信号を無視し、義務感だけで働き続けることは、決して誰の得にもならない。自分の気持ちを大切にする決断こそが、実は最も責任ある選択なのだ。
キャリア再構築への第一歩
面談を通じて、彼女が見つけたのは、「自分が本当に大切にしたいこと」の明確化だった。
それは、以下のような気づきを含んでいた:
- 自分は「統制」よりも「信頼」を基盤とした組織文化を重視する
- 現場の創意工夫を尊重し、職員の成長を支援する環境で働きたい
- 利用者と職員の両者にとって、心地よい職場づくりに関わりたい
- 自分の判断や裁量が活かせる立場を求めている
これらの気づきは、次の職場選びの「判断軸」となる。給与や勤務地といった条件だけでは見えない、「自分たちの組織が何を大切にしているのか」「そこで働く人々の満足度がどの程度なのか」という視点で、職場をリサーチする際のガイドになるのだ。
最後に——あなたの気持ちを優先する勇気
もし、あなたも同じような状況にいるのであれば、この言葉を受け取ってほしい。
「転職したい気持ちを押し殺す必要はない。その気持ちは、あなた自身が、現在の環境を正直に評価した結果なのだ。」
責任感や罪悪感は、大切な感情だ。しかし、それらが自分の人生を支配する必要はない。心身が発する警告信号を受け止め、自分のキャリア、そして人生において何が本当に大切なのかを考え直す。その勇気が、次のステップへの第一歩になるのである。
献身的に働いてきたあなただからこそ、今、自分の気持ちを最優先に、キャリアの再構築を考える価値がある。それは決して、裏切りではなく、最も誠実な選択なのだ。