「30万円の手取りでいい。ただ、人を駒としか見ない職場はもう無理なんです」

カフェでコーヒーを前に、そう静かに語った女性がいた。彼女は介護現場で20年以上のキャリアを持つシングルマザーで、現在は施設長として複数の福祉施設を運営してきた実績を持つ。看護師資格を取得し、介護現場に入った当初は、利用者の日常生活を支援することの充実感に満たされていた。その後、施設のマネジメント、経営改善、職員の育成と、職務は次々と拡大していった。そして築き上げた実績がありながらも、今、彼女は人生の根本的な問い直しに直面している。

シングルマザーとしての責任、管理職としての圧力、そして「本当の意味で人が大切にされる職場とは何か」という問い。複数の職場で経験した「人を資源として見なす」経営姿勢への疑問が、遂に決定的な行動につながろうとしていた。

20年のキャリアの中で気づいたこと

彼女の介護職キャリアは、看護師資格の取得から始まった。最初は病院での勤務を経験し、その後、高齢者介護の現場へ。デイサービス、入居型施設、特別養護老人ホームなど、複数の職場を経験する中で、彼女が実感したのは「どこも同じ課題を抱えている」という現実だった。

職員が疲弊している。利用者への支援の質が落ちている。離職率が高い。こうした現象の背後にあるのは、何か。彼女は徐々に、その根本原因が「職場の人生観」にあることに気づき始めた。

介護職の本質:人を支援する仕事

介護職は、人が最期の時間まで、尊厳を持って生きることを支援する仕事です。利用者一人ひとりの人生史、価値観、想いを理解し、それに寄り添うことが求められます。しかし、「経営効率」の名の下に、人が数字として扱われ始めると、その本質は失われていくのです。

施設長への昇進——期待と現実のギャップ

彼女のキャリアが大きく変わったのは、施設長としての職を引き受けた時点だった。当初、それは実績の証であり、利用者支援をより良くする機会だと考えていた。事実、彼女が赴任した施設の多くは、経営難や人間関係のトラブルで揺らいでいた。彼女はそうした施設を立て直し、稼働率を改善し、職員の定着を進めた。

しかし同時に、上層部からの要求は増すばかりだった。「さらに拡張しよう」「もっと収益を上げよう」「新しい事業を立ち上げよう」。数字ばかりが求められるようになった。利用者も職員も、いわば「数字を生み出すための資源」として見なされ始めたのだ。

彼女がシングルマザーであることは、その圧力をより厳しくした。「女性だからこそ、気配り、細やかな対応ができるはず」という期待が、同時に「家庭を優先させるべきではない」という暗黙のメッセージとなっていった。子どもが病気の時に早退する、学校の行事に参加する——そうした当たり前の親の行動さえ、「責任感がない」と評価されることもあった。

「良い施設」を作ってきたはずなのに

改善した数字、改善されない心

彼女が施設長として関わった複数の施設では、確かに改善が起きた。稼働率が低かった施設が、6ヶ月で満床近くまで回復した。職員の離職率が30%を超えていた施設が、その後5%程度まで低下した。利用者のADL(日常生活動作)の改善率も向上した。

しかし、彼女の心は満たされていなかった。なぜなら、その改善が「人を大切にすること」から出発していなかったからだ。むしろ、職員たちを追い詰め、利用者たちを「成功事例」として利用する形で達成された改善だったのである。

「実は、僕たちはとても疲れています」と、ある時、若い職員が彼女に打ち明けた。「稼働率を上げることが目標になっていて、その過程で『これでいいのか』という疑問を持つ余裕がない」と。その言葉は彼女を揺さぶった。自分が築き上げたと思っていた「良い施設」は、実は職員たちにとって「良い職場」ではなかったのだ。

利用者との最期の時間

介護職のキャリアの中で、彼女が何度も経験したのは、利用者の死である。入居型施設での長年の勤務の中で、彼女は多くの利用者の最期に立ち会った。

その瞬間、数字は全く意味を持たない。その人がどう生きたのか、どう死を迎えたいのか、家族は何を望んでいるのか——そうした「人間的な問い」だけが重要になる。彼女はそこで、本当の意味での「人を支援する」ことの重要性を何度も確認してきた。

「人生の最期まで、その人らしく在れるように支援する。それが、わたしたちの仕事です」。その想いは、彼女の中で揺るがなかった。にもかかわらず、組織の圧力の中で、その想いは次々と抑圧されていくのを感じていた。

「ありがとう」が欲しかったわけではなく

彼女が相談の中で何度も口にしたのは、「温かさ」と「感謝」という言葉だった。しかし、誤解してはいけない。彼女が求めているのは、利用者からの「ありがとう」という言葉ではなかった。むしろ、職場全体が「人に貢献している」という実感を共有できる環境だったのだ。

利用者から「ありがとう」と言われることは、介護職にとって重要な経験だ。しかし、本当に求められるのは、職場の中で「お互いを大切にする文化」が存在することである。職員同士が感謝し合える関係、利用者の想いに心を寄せられる余裕、そして経営層がそうした姿勢を理解し、サポートするという構造。

シングルマザーの現実

シングルマザーとして働く場合、給与と安定が必須条件です。しかし、それ以上に必要なのは「人生全体を見てくれる職場」です。子どもの成長段階によって、仕事と育児のバランスは変わります。その変化に対して「どう対応するか、一緒に考えよう」という姿勢がある職場と、「仕事を優先させるべき」という一方的な期待の職場では、働き手の心の状態が全く異なるのです。

「少し休みたい」という選択

彼女のキャリア相談は、他の相談者と異なる性質を持っていた。彼女は「次の仕事を見つける」という単純な目的ではなく、「自分の人生を問い直したい」という想いで相談に来た。

「今、僕は少し疲れています」。そう率直に語った彼女に対して、私たちが提案したのは「焦って次を探さなくてもいい」ということだった。20年以上のキャリア、複数の施設の立て直し、シングルマザーとしての責任——こうしたものを背負い続けて来た彼女は、心身ともに疲弊していた。

「本当にしたいこと」を見つけるために必要なのは、時間であり、余裕である。焦って条件マッチングで次の職場を選んでしまえば、また同じ苦しみに陥る可能性は高い。むしろ、一度立ち止まり、子どもとの時間を取り、自分の想いと向き合う期間が必要だと考えた。

「ありがとう」と言える職場へ

新しい選択肢の模索

相談を進める中で、彼女は次第に「どんな職場で働きたいのか」という問いに向き合い始めた。条件としては:

  • 給与:手取り30万円程度あれば、子どもの育育に支障がない
  • 規模:大きな組織でなく、中小規模の施設。「人」が見える規模
  • 姿勢:経営理念が「人を大切にする」ことに一貫している
  • 裁量:直接支援もマネジメントも自分の判断で実行できる自由度

これは、高い給与を求める求職者とは異なる選択である。事実上、多くの施設長候補者は、より高い年収を求めて転職する。しかし彼女は「人を駒にしない職場」を選ぶ方が、人生全体の幸福度は高い、と判断したのだ。

直接支援への回帰

彼女が相談の中で語った想いの一つが、「もう一度、利用者と直接向き合いたい」ということだった。施設長の立場では、経営判断や職員の人事評価に時間が割かれ、個々の利用者とゆっくり関わる時間が失われている。

「朝、利用者さんの顔を見て『今日もいい天気だね』と話す。その時間が、実は一番大切なんだと気づきました」。そうした「人間的な関わり」を取り戻すことが、彼女の新しいキャリアのビジョンの中心にある。

施設長という地位を手放すことは、給与の低下を意味し、社会的な「ステータス」も下がるかもしれない。しかし、彼女にとって重要なのは「自分は何のために働くのか」という問いの答えだった。その答えは「人を支援すること」「その過程で『感謝』を感じること」——そうした本質的な充足感を求めることだったのだ。

シングルマザーであることの強み

相談の最後に、私たちは彼女に伝えた。「あなたのシングルマザーとしての経験は、介護職としての強みになる」と。

彼女は子ども一人を育てるために、限られた時間の中で最大限の工夫をしてきた。予算制約の中での優先順位の決定、限られたリソースの効率的な活用、予期しない状況への柔軟な対応——これらは全て、介護現場で要求される「人間的な工夫」と一致している。

同時に、彼女が子どもの成長を見守る中で実感した「成長の喜び」「新しい段階への不安」「親として自分の役割を問い直す」という経験は、高齢者の人生段階の変化に寄り添うための感受性を育てている。

つまり、シングルマザーとしての人生経験そのものが、利用者と職員への「本当の理解」につながるのだ。

まとめ:人生観から職場を選ぶ

20年以上のキャリアを持つシングルマザー施設長の選択は、多くの職業人にとって示唆に富んでいる。

通常、キャリアは「上昇」するものとして描かれる。より高い給与を求め、より大きな責任を求め、社会的なステータスを追い求める——そうした「外部的な成功」の追求は、確かに社会的には「良い選択」と評価される。

しかし、彼女の選択は異なっている。自分の人生観——「人を駒にしない職場で働きたい」「温かさと感謝の中で仕事をしたい」「子どもとの時間も大切にしたい」——その想いを優先させるために、給与や地位を引き下げることを選んだのだ。

これは、決して「現実的ではない」選択ではない。むしろ、本当の意味での「現実的」な選択である。なぜなら、人生全体の充足感、心身の健康、そして子どもとの関係の質——こうしたものの方が、社会的ステータスよりも、長期的な人生の幸福度を左右するからだ。

介護職として働く全ての人、特にシングルマザーとしての責任を背負う人たちが、「自分は何のために働くのか」という問いに向き合い、その答えに基づいて職場を選べる社会——それは、同時に「人を大切にする介護現場」を実現する社会でもあるのだろう。